一、人権宣言の歴史
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一、人権宣言の歴史
日本国憲法には、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、の三大基本原理がありました。
第2部では三大基本原理の最後の1つ、基本的人権の尊重について説明していきます。
基本的人権の尊重は三大基本原理の中で最も重要な原理です。
これまで、三大基本原理のうち、国民主権主義、平和主義、を説明してきました。
これら三大基本原理はそれぞれ相互に関連しているのです。
専制政治の下では人権の尊重がおろそかになっていました。
そこで人権の尊重が重視されます。人権が尊重されることによって、国民主権がなされるのです。
専制政治の下では人権の尊重がおろそかであった。 |
そこで人権が尊重されることによって、国民主権がなされた。 |
このように人権尊重主義と国民主権主義は密接に関わっています。
人権の尊重も国民主権も平和であることで確保されます。
平和主義の原理も人権の尊重や国民主権と密接に関わっています。
このように基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、の三大基本原理はそれぞれ相互に関連しています。
基本的人権の尊重が中核となって、国民主権、平和主義が成り立っているのです。
この基本的人権は人権ともいいます。ここでは以後、人権という言葉で説明していきます。
人権とは、広く誰もが生まれながらに自由平等である、とする権利です。
この人権はどのようにして誕生したか、という歴史的経緯を説明していきます。
人権が誕生した歴史の大きな流れは、①国民権から人権へ、②法律による保障から憲法による保障へ、 ③自由権から社会権へ、
というものです。
ここでは以下、この①~③の流れを順次説明していきます。
①~③は、はっきりとした境目はありません。したがって、なんとなくこういう流れがあるんだな、という程度に捉えてください。
まずは国民権から人権へ、という流れからです。
人権という思想が一番最初に登場したのはイギリスです。
1215年にマグナ・カルタという一番古い憲法ができました。これは国王に対して貴族が身分の保障のためにつくったものです。
1628年の権利請願も国王の圧政に抗して議会が提出したものです。
1689年の権利章典は王権を濫用する国王を追放し、新たに王を立て市民の権利を認めさせる法を制定したものです。
この3つが憲法誕生において歴史上重要な位置を占めています。
イギリスにて… |
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1215年 マグナ・カルタ 国王に対し、貴族が身分の保障のためにマグナ・カルタという憲法をつくった。 |
1628年 権利請願 国王の圧政に抗して、議会が権利請願を提出した。 |
1689年 権利章典 市民VS王の戦いで、市民が勝利した。王権を濫用する国王を追放し、新たに王を立て市民の権利を認めさせる権利章典を制定した。 |
下の者が上の者に対して勝ち取ったものなんだね。何だかカッコイイな。
そうです。しかしこの頃の人権はまだ国民権としての性質が強かったのです。
国民権とは人権の初歩的なもの、人権の芽生え、と考えてください。
人権は今でこそ広く誰もが生まれながらに自由平等、というものですが、この頃はまだ限定的な権利しか認めていないものでした。
国民権は、ロック(1632~1704)やルソー(1712~1778)などの思想家が、様々な著作で世に訴えて影響を与えます。
後に自然権的な人権に成長していきます。これが国民権から人権へ、という流れです。
イギリスの影響を受けて、 1776年にアメリカではアメリカ独立宣言、 1789年にフランスではフランス革命によってフランス人権宣言、がされました(18世紀後半)。
フランス人権宣言のときの革命を市民革命といいます。ここで近代的な人権の考え方が誕生します。
フランス革命(市民革命) |
近代立憲主義の誕生: 市民革命により市民が権利を勝ち取った。 |
やったぁ♪人権登場!
フランス人権宣言は、第1章 憲法と立憲主義三、立憲主義と現代国家-法の支配-でやったね。
19世紀から20世紀前半にかけて、フランス人権宣言の影響でヨーロッパ諸国に人権宣言を含んだ憲法が広まっていきます。
しかし残念ながらこの頃は国民権を保障するものが多く、人権の考え方が必ずしも採用されなかったのです。
19世紀に市民革命の時の人権の考え方が衰退してしまった原因として、経済の発達に伴って合理主義の考え方が発達したり、議会制が確立したり、と色々な理由が挙げられます。
その後、第二次世界大戦の苦い体験によって市民革命時の人権の考え方が見直されるようになりました。
第二次世界大戦のように人権を侵害するようなことが二度とあってはならない、と世界中が反省したのです。
そうして人権の「法律による」保障、という従来の考え方を超えて、人権は法律によっても侵されてはならない、という「法律からの」保障が強調されるようになりました。大きな転換です。
これが法律による保障から憲法による保障へ、という流れです。憲法による保障とは「法律からの」保障、という意味です。
そして人権の歴史で大きな変化が起きます。
19世紀は自由国家であったのに対し、20世紀は社会国家になりました。
社会国家とは公共の福祉や社会的・経済的弱者のために、国家が積極的に介入することです。
19世紀では、個人の財産は不可侵、商業も自由競争、としていました。
しかし、20世紀ではみんなの生活を便利にするダムを造るため個人の財産を犠牲にしたり、中小企業を保護するため大型企業の規制をしたりしました。これが自由権から社会権へ、という流れです。
19世紀の自由国家では、個人の財産は不可侵としていた。 |
20世紀の社会国家では、みんなの生活を便利にするダムを造るため、個人の財産を犠牲にすることもある(公共の福祉)。 |
19世紀の自由国家では、商業は自由競争としていた。 |
20世紀では、中小企業を保護するため大型企業の規制をすることもある。 |
なるほど。でもなんで社会権が発達したんだっけ?
自由権は国家が介入しない、という考え方です。社会権は国家が積極的に介入する、という考え方です。
最初は自由に市場の競争に任せていたことで、どんどん経済が発達しました。
しかし、そのうち貧富の差が激しくなってきて社会的弱者や経済的弱者を救済する必要が出てきました。
従来の自由権の考え方だけではうまくいかなくなり、社会権の考え方も必要とされるようになりました。
近代立憲主義には、貧富の差ができてしまうという欠点があった。 |
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納得。これじゃ国家の積極的な介入が必要だね。第1章 三、立憲主義と現代国家ー法の支配ーでやったね。
こうした社会権の登場から、社会権が保障されるようになっていきました。
1919年のワイマール憲法は初めて社会権を保障した憲法です。
自由放任なだけじゃダメなんだね。
その通りです。しかし、間違えないでほしいのは、本質は自由権の考え方ということです。
社会権の考え方から国家が介入して、悪いことが起きてしまう場合もあります。
私たちの現代では、自由権の考え方が本質的なもの、社会権の考え方は補充的なもの、として考えられています。
現代の考え方は、メインが自由権でサブが社会権、ってことだね。
お寿司とガリの関係だね。
その通りです。国家から自由でありたい、というのが私たちの本質的な考え方なのです。
第2部 第5章 基本的人権の原理 一、人権宣言の歴史 おしまい
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